(2001年3月1日号)

「統合保育が当たり前の世の中になることを願って

石井利香さんの本「障害児の親から健常児の親へ」の紹介はこちらです。

特集

 「頑張ってね、等言われたくない」「同情されるのはいや…」、卒園した障害児のお母さんが編集した書籍「障害児の親から健常児の親へ」の中にあるメッセージです。では私達はどうすればいいのか、何と言葉かけをしたらよいのか、とても難しい課題をつきつけられたような気がします。

 本法人渕野辺保育園には、統合保育の一環として、その親の心情を支え、自己洞察の機会を創るために、月一度の「かめのこ親の会」があります。統合保育を進める上で家庭との連携が欠かせないことはもちろんですが、保育体験は発育上の通過点になるので、卒園後も父母が社会の誤解や偏見に負けないパワーを身につけて欲しいと願うからです。考えてみれば、障害児へのケアや専門性はそれなりに保障されていますが、その親へのサポートや支援システムは必ずしも充分成立してるとは言えません。

 一般に障害児がこの世に生を受け、初めて出会うのが母親ですが、その母親が打ちのめされ、我が子に笑顔を向けられなかったとしたら、それこそ二重のハンディーを負うことになるでしょう。合わせて、障害児の心の奥底に「人との関係性」となって刻まれ、その一生を規定することになりかねません。

 それゆえ、障害のある我が子を、ありのまま受け入れるようになるまでには、それ相応のプロセスが必要になります。しかもその時期が、丁度、就学前と重なりますから、私達に親の気持ちを少しでも和らげ、癒し、負担を軽減させる責任の一端があるのです。

 その「かめのこ親の会」の3年前のメンバーが、園の開園50年を記念して、ワープロ打ちの小冊子を作ったことが、この本の発端です。それは代々卒園していった障害児の父母から、アンケートを集め、親の率直な思い、本音などを綴る健常児の親へのメッセージ、いや健常児の親と言うより社会世論に対するアピールといってもいいのでしょう。

 それ以後一年間以上にわたって、全国の方々から、問い合わせ、意見、感想、注文などが、集中することになったのですが、やがて朱鷺書房さんから声がかかり、その後のやり取りを含めて製本化に至ったという経過です。その代表として編者を務めた石井利香さん、今は熊本市に転居していますが、こんなメッセージを寄せて下さいました。

 

 ボランティアにもいろいろあります。私は街頭での募金には、ほとんど協力しません。冷たいと言われても仕方ありませんが、募金をした後の何とも言えない思いに絶えられないからです。100円じゃケチと思われるかも知れない。じゃあちょっと思いきって1000円。でも10000円だって出せないことはない……。「いったい、いくら入れればいいの〜」と叫びたくなります。困っている人を助けるのは当たり前だけれども、お金以外の方法でと思ってしまいます。発達障害のある長男は名古屋の市立保育園で1年、渕野辺保育園で3年の合計4年間を「統合保育」で過ごすことができました。

 「統合保育」の中で成長できた彼は本当に幸せ者だと思うし、親の私自身も「統合保育」に出会えた事を幸せに思います。うちには、彼の下に二人の子どもがいますが、残念ながら「統合保育」ではありません。様々な事情があるので仕方がないのでしょうが、一度「統合保育」を経験させてしまうと、いわゆる健常児ばかりの集団が不自然に思えてなりません。これは「統合保育」を経験したものしか分からない気持ちだと思います。こういう思いを伝えていくことこそ大切ですが、「統合保育」が普及しないのは、伝える人が少ないからだと思います。何故なら「統合保育」を受けさせてよかった〜と思っている障害児の親はとても忙しいのです。

 障害のある子には、次々と越さなければならないハードルがやってきます。それも一つ一つがとても高く厳しいものなのです。結局、過ぎ去ったものを振り返っている余裕等なく、前に向かって行かねばならない、そんな思いを代弁したくて「障害児の親から健常児の親へ」のサブタイトルを「統合保育が当たり前の世の中になることを願って」としました。本の中で「統合保育を当たり前の世の中にする会」を立ち上げています。まだ、余り稼動していませんが、皆さんの思いを少しでも伝えて行けたらと思っています。

 もう一つ、過ぎ去ったことで伝えていかなければならないものがあります。これは伝えるというよりも、変えていかなければならないものです。それは、認可保育園において、障害児を受け入れる制度(障害児枠)で入園しているにもかかわらず「就労証明書」を提出しなければならないことです。私もこの制度には、泣かされました。どうして「障害児枠」で入園許可されたのに「就労証明書」が必要なのか?障害児を抱える親は子どもを預かってもらっているつかの間にホッとすることも許されないのでしょうか?もちろん障害児を抱えながら働き続けている方もいらっしゃいますが、せめて「障害児」枠で入園を許可したら「就労証明書」の提出は不必要にするよう、行政に粘り強く働きかけていかねばと思っています。

 長男が小学生になってしばらくしてから、一番下の子を連れて渕野辺保育園に遊びにいった時のことです。穏やかな春の日差しの中、園庭ではたくさんのお友達が遊んでいました。その中で年少の男の子がずーっと一人で遊んでいました。一人で遊んでいるけれどもそれは全然不自然ではありませんでした。

 彼にとっては今は一人で遊んでいるのが楽しいのがわかったからです。その時に初めて一人で遊んでいてもよかったのだとわかりました。我が子の時はどうしてお友達と遊ばないのだろうと否定的にしか見れず、落ち込んでばかりいました。同じ行動でも見方によって随分違います。こういうことも、今、一生懸命になりすぎていて、物事をひとつの方向からしか見えなくなっている皆さんに伝えていきたいと思っています。

熊本市在住  石井 利香

 

 統合保育は、既に一般化して市民権を得ているものと認識していましたが、石井さんが指摘するように、「当たり前の世の中に」という視点にたつと、まだ量的にも質的にも、とても充分とは言えません。統合保育(インテグレーション)に対して分離保育(セグレーション)といいますが、同質集団のみで構成するのがセグレーションになります。同質集団はいい関係を創りやすい反面、それぞれが自己本位の考え方に陥りやすい傾向があります。

 一方、統合保育は、健常児と障害児が一緒に生活することを基本に、活動を共有し合い、ともに育ち合うことを目ざした保育形態です。ちなみに本法人、渕野辺保育園の統合保育は、昭和48年に国のモデル事業として誕生しました。以後、毎年多数の発達障害児が在園しましたが、園の基本目標「いっしょっていいね」を柱に障害児を個々に分断して、狭い枠内に留めたり、また病理的に捉えてしまう考え方は否定しています。何故なら、それぞれの障害を充分に認めながらも、個々の行動特徴は全て、精神内界での動揺の現れによる表現パターンとして受け入れ、それよりももっと根本に属する取り組みを重視する方向になるからです。

 そこから、障害児がゲストやミソッカス待遇に陥らない「共通項の保育」、いいかえれば健常児と障害児の双方が共有する「子ども性」を原点にした統合保育を核に据えるようになるのです。そして、この「共通項の保育」こそ、私達保育者が普段陥りがちな表面的な保育形態を抑止させ、子ども達一人一人の内面を重視する「保育の原点」を教えてくれることになるのです。処で、統合保育の目的には大きく三つ位あるように思います。

 第一は、全ての障害児に子ども社会に所属する権利を保障するために、共有する居場所や所属ステージを創ること、それは基本的人権に属することです。

 第二は障害児を受け入れる母集団、その子ども達一人一人に福祉教育的な効果が期待されることです。日常保育を通じて自然体でいろいろな子ども達と係わり合う関係性こそ、人の気持ちが分かる優しい福祉の芽が育まれることになるからです。

 そして第三は、統合保育を体験する障害児に一定の保育効果があり、心身の発達が保障される必要があります。言うまでもなく私達保育者は、障害そのものを治すことはほとんどできません。しかし基本障害によって生まれる機能的な障害の一部や社会適応場面でのハンディーはいわゆる人為的な領域とみることができますから、少しは改善することができるはずです。

 少なくとも、ハンディーを持ちながら自己実現したり、チョッピリ幸せな家庭を作るためのお手伝いなら、可能な範囲であるかもしれません。しかしそのためには本人はもちろん、その親や家族が、混乱したり悩んだりしなくても済むような社会を国民的な合意として築くことが課題です。その作業には、ハード、ソフト両面からの検証が必要ですが、とりわけ人の意識の改革がポイントになるでしょう。

 その意識の改革には幼いうちから、健常児と障害児が一緒に遊び、生活する体験にこそ、大きな意味があるのです。振り返って、私達が無意識のうちに、障害をマイナス思考でとらえてしまう認識を心の中に描いていることはないでしょうか。冒頭の「同情されるのはいや…」という気持ちをたどると、私達は子ども達から、多くを学ぶことができます。

 統合保育の現場では、子ども達が障害を気にしていたのは最初のうちだけ、やがてそれをごく当たり前の受け入れてしまう見事な懐の深さがあるからです。だから、まだ混乱期にあって、無意識に防衛する心情の障害児の親へ、ごく自然体に仲間の一員に迎えることが大切です。

 とにかく障害は、発生出現率の問題であって、今は関係なくても将来とも関係ないと言いきれる人は誰もいないのですから。「ねぇ、Aちゃんどうしてお話できないの?」と言っていた子どもが、「いまね〜、Aちゃん、楽しそうに笑ったよ」と、まるで自分のことのように嬉しそうに話します。きっとAちゃんの表情から、心が通じ合ったのでしょう。「Aちゃん、こんなこともできるんだよ」と話してくれる子どもの心から何とも言えぬあたたかさが伝わってきます。「いっしょっていいね」の統合保育、もっともっと広げ深めていきたいものです。

 

 

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